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第1弾 零戦出撃せよ
『あなたの趣味は?』と問われたら、私は『何かを集めることが趣味です』と答えるであろう。
妻は私と結婚した後、その事に気付いて驚いたようである。
『あなたは、いつからこんなにガラクタを集めるようになったの?
結婚前に申請して欲しかったわ。家の中がガラクタだらけ』とあきれ気味だ。
私は小学生の頃より収集癖があるようだ。ビー玉、面子、ベーゴマから始まり、切手、記念コイン、プラモデル(特に飛行機)、オリンピック・ワールドカップ等の記念雑誌、映画のパンフレット、最近ではワインのラベル、ゴルフ場のマーカー、美術館のパンフレット等である。
しかし残念ながら、小学生の頃、勉強をないがしろにして、プラモデルばかりを作っている姿を見て、母親は私の将来を心配したのか、私が小学校に行っている間に全て捨ててしまった。私は大変激怒し、そして悲しんだ。
“ただ集めて喜んでいるだけではない。色々な事を考えているんだ!”と言いたかったが、思いが募り、言葉にならなかった。
数年前、街中のショウウインドウで「紫電改」という日本の戦闘機が私の眼の中に映った。私の小学校時代の記憶が甦ってきた。
私は飛行機を再び収集したくなった。
とたんに今ならもう誰にも非難されず、自分の世界を作れると思った。一機また一機と飛行機の数も増え、飾る棚が必要となり、そしてついに駐車場の一部に自分の趣味の部屋を作ってしまった。妻からは「オタク部屋」と呼ばれ、家族は誰も近づかない。この部屋にはピアノが1台、パソコン、そして2つの棚がある。1つの棚には現在のところ航空機約170機、戦車約50台が陳列している。もう一つの棚には他に集めた物を収納している[写真1]
オタク部屋
今回は航空機の紹介の第一弾として零戦について述べてみたい。
第1弾 零式艦上戦闘機
零戦のゼロとは・・・
零戦が正式採用されたのは昭和15年だった。その年は皇紀(日本の独自の暦:神武天皇が位に就かれた年を第1年とした)2600年にあたっていた。その末尾をとって、ゼロ戦と命名された。ちなみに、96式艦戦は昭和11年すなわち皇紀2596年の末尾2桁を取って名付けられた。
【Ⅰ】21型 [写真2]
零式艦上戦闘機 21型:ジーク
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 栄12型空冷式複列星型14気筒950HP
- プロペラ
- 直径3.05m
- 寸法
- 全幅12m、全長9.05m
- 全備重量
- 2,410kg
- 最大速度
- 533.4km:時
- 実用上昇限度
- 10,000m
- 航続距離
- 3,502km
- 機銃
- 胴7.7mm銃×2
- 爆弾
- 30kgまたは60kg×2
- 構造
- 全金属製応力外皮
昭和15年9月13日、重慶空襲では、中国の戦闘機に対して圧倒的な勝利を収めた。また、真珠湾奇襲攻撃では、空母に格納の便を考慮して、本機の翼端を折り畳み式にした。太平洋戦争初期米国の驚異の的となった。
【Ⅱ】32型 [写真3]
零式艦上戦闘機 32型:ジーク
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 栄21型空冷式複列星型14気筒1,100HP
- プロペラ
- 直径3.05m
- 寸法
- 全幅11m
- 全備重量
- 2,644kg
- 最大速度
- 544.5km
- 実用上昇限度
- 11,050m
- 航続距離
- 2,378km
- 機銃
- 胴7.7mm銃×2
- 爆弾
- 30kgまたは60kg×2
- 構造
- 全金属製応力外皮[写真3]
翼端の折りたたみ部分を廃止、そして弾丸も一銃100発ずつに増加。21型の向上を図った。しかし、飛行距離が短縮されてしまった。ラベウルに配属された32型はガダルカナルへの上空にいられるのが、わずか15分、制空権を失う結果となった、補給路が断たられた日本軍は飢えて、マラリア等の熱帯病、底をついた弾薬などで悲惨な戦況に直面した。そしてついに昭和18年2月に撤退する結果となった。これを境に日本と米国の攻守が交代した。
【Ⅲ】22型 [写真4]
零式艦上戦闘機 22型:ジーク
航続距離を改善させるため、翼幅を元に戻し、燃料タンクを増設した。20ミリ機能を長銃身の99式2号銃に換装し、戦闘能力を向上させた。
【Ⅳ】52型 [写真5]
零式艦上戦闘機 52型:ジーク
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 栄21型空冷式複列星型14気筒1,100HP
- プロペラ
- 直径3.05m
- 寸法
- 全幅11m、全長9.121m
- 全備重量
- 2,733kg
- 最大速度
- 564.9km:時
- 機銃
- 同7.7mm銃×2
- 爆弾
- 30kgまたは60kg×2
- 構造
- 全金属製応力外皮
再び翼幅を短縮し、エンジンの排気の[写真5]ロケット効果を狙った推力式単排気管とした。防弾ガラスを装備。機首の機銃を廃止して、主翼に2丁ずつ機銃を増備、更に小型ロケット弾を発射可能にした。
米国陸軍戦闘機 P40カーチス
米国海軍戦闘機 :F4Fワイルドキャット
太平洋戦争当初、零戦を迎え撃ったのはP40カーチス、F4Fワイルドキャット[写真7]
であった。しかし、零戦の敵ではなかった。昭和17年6月5日、アリューシャン列島で日本と米国の機動部隊が激突した。古賀忠義一飛曹が操縦する零戦が空母「龍驤」への帰還不可能となり、ダッチハーバー東方にあるアクタン島近くの海岸に不時着、古賀一飛曹は首の骨を折って即死。しかし、完全な形で零戦は米国に捕獲されてしまった。米国は必死に研究開発を開始した。
また、戦法も米軍は検討した。2機1チームで1機の零戦と空中戦を行うことにした。米国の戦法に対抗して、日本軍も2機で行動した。
しかし、上官が部下を救った場合は問題にならないが、部下が上官の窮地を救った場合、上官のプライドが許さなかった。『余計なことを!わしは貴様に助けてもらわなくても大丈夫だ!』日本人の上下関係は米国の合理主義に敗北し、零戦は次々に撃墜された。多くは熟練パイロット達が命を落とした。
米国海軍戦闘機:F4Uコルセア
米国陸軍戦闘機:P38ライトニング
一式陸上攻撃機:ベティ
B25爆撃機:ミッチェル
B29爆撃機:スーパーフォトレス
米国陸軍戦闘機:P51 ムスタング
F4Uコルセア[写真8]・F6Fヘルキャット[写真7と外見ほぼ同じ]が開発され空母から発艦した。米国陸軍にもP38ライトニング[写真9]が登場し、占領した島の飛行場から発進した。P38ライトニングは昭和18年4月18日、前線視察に訪れた山本五十六連合艦隊指令長官を乗せた一式陸上攻撃機[写真10]をブーゲンビル島上空で撃墜した。山本長官の死は日本の敗戦を更に加速させた。
その前年、米国は日本の破竹の勢いに一矢報いたかった。日本人に大和魂があるなら、米国人にはヤンキー魂がある。
空母ホーネットを房総沖に極秘に出撃させた。昭和17年4月18日、B25爆撃機・ミッチェル[写真11]がホーネットから発鑑した。東京初空襲となった。B25は空襲終了後一目散に中国大陸に逃げ去った。米国人を歓喜の渦に巻き込み、日本国民に一抹の不安を抱かせた。
昭和19年大西瀧治郎中将は爆弾を抱えた零戦による敵艦への体当たりを目指す神風特別攻撃機を決断した。同年10月25日フィリピン沖海戦で空母“サンチー“に零戦は突入した。最初の戦果となった。予想していなかった攻撃に米国は当初困惑したが、次第に米国は特攻に対する対策も立てた。神風攻撃隊は徐々に戦果を上げられず、多くの若者の死が零戦と共に海に消えていった。
昭和19年7月7日サイパンが陥落した。米国は直ちに飛行場を作り直し、B29[写真12]を配備した。本格的な日本本土への空襲が始まった。B29の航続距離は日本への往復を可能にした。しかし、戦闘機の護衛は不可能であった。迎え撃つ零戦はB29を撃墜することが可能であった。しかし、物量に勝る米軍は日本本土空襲を続行した。昭和20年3月10日東京大空襲が行われた。サイパンと日本の中間点である硫黄島の占領に米軍は全力を注いだ。3月26日日本軍は玉砕した。ヨーロッパ戦線で活躍したP51ムスタングが配備された[写真13]。
ムスタングの航続距離はB29の充分な護衛を可能とした。ムスタングにとって零戦は既に敵ではなかった。
零戦は次々と撃墜され、B29に正確な空襲ができる余裕を与えた。又、ほぼ無防備になった日本近海に空母が出没し、F6Fヘルキャットが発艦した。ヘルキャットは日本上空に出現し、民家にも銃弾を撃ち込んだ。日本人は「グラマンがまた来た!」と悪魔の出現のように恐れた。グラマンとはワイルドキャット・ヘルキャットを製造した社名である。米軍パイロットは「Remenber Parl Harbor!」と叫んだ。
昭和20年8月15日ラジオから玉音放送が流れた。
戦争は終わった。神風特別攻撃作戦の実施に踏み切った大西中将は8月16日割腹自殺を遂げた・・・・。
もう誰も「零戦出撃せよ」という命令を発令する者はいない・・・。
零戦は次々に投入される米軍の新鋭機に対抗できず、最後には250kg爆弾を抱いて特攻機の主力となった。文字通り日本海軍航空隊の栄光と悲惨の歴史を一身に負った戦闘機である。
長い説明に付き合っていただき誠にありがとうございました。ここまで書いて、ふと思うことがあります。
私は確かに飛行機、特に第二次世界大戦時の機種が大好きだった。
しかし、私は単に飛行機を作って、飾って、喜んでいた訳ではなかった。
飛行機を通して、日本だけでなく世界が何故戦争へ走ってしまったのか、そしてその悲惨な結末がどうだったのか、子供なりに脳裏に焼き付けていたのだ・・・。
『我家を訪れる人に誰彼もなく“ちょっと飛行機を見ていきませんか?”と誘うのは止めた方が良い』と妻から言われている。
そういえば、私が説明を始めると、皆さん『はぁー、凄いですね…』の同じ感想で、少し困った顔をされるようだ。
収集家とは淋しいものである……。
「零戦出撃せよ」
江戸川区医師会・会報誌・江戸川2007年1月号に記載
第2弾 隼 帰還せず
随筆第6作「零戦出撃せよ」江戸川区医師会・会報誌・江戸川・2007年1月号にて零戦(21型・32型・22型・52型)と零戦に対抗した米国機(P40ウォーホーク・F4Fワイルドキャット・F40コルセア・P38ライトニング・B25ミッチェル・P29スーパーフォトレス・P51ムスタング)を紹介した。今回は飛行機の簡単な歴史と日本陸軍機を数機紹介する。
空への憧れ
人類は常に空を飛ぶ夢を抱いていた。人も鳥やコウモリのように飛ぶことができるという幻想をもったため、古来より何回も飛行実験が繰り返された。その結果、勇敢で愚かな人達は命を落した。
レオナルド・ダ・ビンチも「人類は翼を羽ばたかせることによって、人を空中に支えることを実現する能力がある」と書き残している。
1783年6月モンゴルフィア兄弟がパリで熱気球を空中に掲げ、人類は初めて地上から空中に舞い上がった。
1890年代、オットー・リリエンタールはハンググライダ-を用いて2000回以上の飛行を行った。
1903年12月7日、ライト兄弟の弟オービルが腹ばいに乗ったフライヤー号は米国ノースカロライナ州キティホーク郊外のキル・テヴィル・ヒルズと呼ばれる砂丘から空中に浮かび上がった。
飛行時間は12秒、飛行距離は37m。この日4回目の飛行で兄ウィルバーが操縦し、飛行時間は59秒、飛行距離は260mを記録した。世界ではじめての“人間の操縦する動力付き飛行機”の誕生であった。
航空ショーと記録更新
航空機の技術は急速に進歩した。欧米の各地で飛行の記録更新や冒険的飛行が試みられた。有名なものとして、1909年7月エベール・ラタムとルイ・ブレリオの二人は英仏海峡横断決行を決行した。このレースには1000ポンドの懸賞金がかけられた。
軍用機
第一次世界大戦が始まると、飛行機は軍用機として使用されることとなった。
最初は偵察機が主で、上空から敵陣地を航空写真で撮影した。次に空中から爆弾を落した。爆撃機の始まりであった。次第に飛行機の機能と操縦能力が向上し、空中戦を行うようになった。戦闘機の始まりであった。
1.フォッカーDr.1(ドイツ)
- エンジン
- 110馬力
- 性能
- 最高速度165km/時、滞空時間:1時間30分、重量:406kg
- 寸法
- 翼幅7.2m、長さ:5.77m、高さ:2.95m
- 武装
- 7.22mmLMG08/15前方射撃固定機関銃2基
この戦闘機を操縦して撃墜王と異名をとった男達がいた。マックス・インメルマン、オズワルト・ベルケ、そして最も有名なパイロットはマンフレート・フォン・リヒトホーフェンであった。彼はレッドバロン(赤い男爵)とも呼ばれ、連合軍の戦闘機を80機撃墜した。
2.ニューボールNie.28C.1(フランス)
- エンジン
- 165馬力
- 性能
- 最高速度206km/時、滞空時間:1時間30分、重量:436kg
- 寸法
- 翼幅8.16m、長さ:6.4m、高さ:2.5m
- 武装
- 7.7mmビッカーズ前方射撃固定機関銃2挺、胴体上部および前方左側部分に装着
シャルル・ヌンジェッセはヴェルダンの戦いで10機を撃墜し、ルネ・フォンクは通算75機を撃墜し、連合国のトップ撃墜王となった
3.ソッピース・キャメル(イギリス)
- エンジン
- 130馬力
- 性能
- 最高速度174km/時、滞空時間:2時間30分、重量:436kg
- 寸法
- 翼幅8.53m、長さ:5.72m、高さ:2.59m
- 武装
- 7.7mmビッカー前方射撃固定機関銃2挺・最大11.3kgの爆弾
第一次世界大戦はサラエボで1914年、一発の銃弾がオーストリアの皇太子を暗殺した。それをきっかけにヨーロッパ中が大戦になった。ドイツ軍のU-ボートによる無差別な輸送船攻撃によって、ついにアメリカがモンロー主義を破ってヨーロッパ戦線に参戦すると、状況は連合軍に好転し、1917年ロシア革命が起こり、ロシアは戦線を離脱した。
1918年ドイツ水兵の反乱が起こり、ドイツ帝国は戦争継続が不可能になり降服した。
日本において第一次世界大戦は好景気をもたらした。多くの成金が生まれた。“成金”とは将棋から生まれた言葉で、“歩”が相手陣地に入ると“金”になる。現在ではヒルズ族と呼ばれているらしい。第一次世界大戦はドイツ・オーストリアの帝政が崩壊し、デモクラシーの勝利とされた。日本では大正デモクラシーと呼ばれた。
大戦が終り、世界は次第に不景気に陥った。1929年(昭和4年)10月ニューヨーク市場で株が大暴落した。世界恐慌の始まりであった。
日本では次第に軍部が擡頭し始めた。特に関東軍は中国への侵略を拡大した。石原莞爾(関東軍参謀)は大東亜共栄圏という構想をぶち上げた。
当時の資本主義・帝国主義は植民地経営のよって成り立つと信じており、中国は地球上に残された唯一最大の“標的”であった。
昭和3年関東軍は満州の軍閥・張作霖を奉天で爆殺した。更に昭和6年奉天郊外柳条湖の満州線路を爆破し、中国軍の謀略と決め付け、関東軍は総攻撃を開始した。いわゆる満州事変の勃発であった。翌年上海でも日中両軍は武力衝突した(第一次上海事件)。同年清朝最後の皇帝・溥儀を擁して満州国の独立が宣言された。当然中国・欧米諸国は「満州国は日本の傀儡国家」と猛反発した。昭和8年日本は国際連盟を脱退した。
昭和12年7月日本軍と中国軍は盧溝橋付近で対峙していた。7月7日日本軍は夜間演習を行った。その後、第八中隊は演習中止と集合を伝えるため、各部隊に伝令を出した。深夜、盧溝橋付近に銃声が鳴りひびいた。点呼をとってみると、伝令に出した二等兵がいないことがわかった。中隊長は大隊長へ「中国軍に攻撃された」と報告した。その報告は連隊長まで伝えられた。そして報復攻撃の許可がおりた。ところが、そのころには行方不明の二等兵は無事に戻って来た。しかし、この攻撃命令は撤回されなかった。本格的な日中戦争の始まりである(支那事変・盧溝橋事件)。
何故この日が始まりであるか?日清戦争以来、中国は日本の強引な要求に対して、何度も大幅な譲歩を繰り返してきた。今回も関東軍は従来通り即座に中国軍を壊滅し、謝罪と反省、そして占領地と認めさせることができると高を括っていた。しかし、蒋介石は“二度と日本に頭を下げることはしない”徹底抗戦を決意した日が、その日であった。
その年の8月には日本陸軍は北京を占領した。一方、海軍陸戦隊は上海で中国軍に周囲され窮地に陥った(第二次上海事件)。
そこに日本陸軍が救援に駆けつけた。日本海軍と陸軍が協力して戦った数少ない作戦であった。戦争が拡大し始めた。陸軍・海軍の総帥権は天皇であったため、現地の司令官達は首相の指示を無視し、事後報告した。その後、内閣は何度も総辞職に追い込まれた。
陸軍の暴走を止められなくなった海軍も、上海で陸軍に助けてもらった恩義があるためか、陸軍の進撃を止めることもなく、上海・南京・重慶への空爆を繰り返した。最近の日本のニュースで、小池防衛大臣が4年間も権力を握っていた事務次官(通常1~2年で退任し後輩に職務を委ねる)の更迭がなかなかできなかった。このことがシビリアンコントロール崩壊の前兆と脳裏に浮かぶことは、私の考えすぎなのか・・・。
当初、マスコミや一部の防衛族議員達は、小池大臣の強引さを批判し、事務次官の業績を評価した。しかし次官退任後、収賄容疑で逮捕されると、マスコミは一転し、彼を酷評した。
昭和12年蒋介石は南京に退却し、徹底抗戦した。しかし、12月日本軍は南京を占領した。多数中国人の死傷者が出た。後日南京大虐殺として報道された。一方、広島・長崎への原爆投下、東京大空襲等によって兵隊以外にも無抵抗な老人・女性・子供達が多数死傷した。しかし、これらは大量虐殺とは報道されない。人々は被害者の立場を強く主張するが、加害者としての行為もお互いに反省するべきでないか。蒋介石は重慶に拠点を移した。日本の中国大陸での勢力拡大に危機感を抱いた欧米諸国は中国に必死に援助・協力した。日本より先に中国大陸を侵略した欧米諸国は、この時点から中国政府にとって略奪者から友好国となった。昭和15年、日本と三国同盟を結ぶドイツさえこの時は中国に武器を輸出していった。
昭和14年、関東軍はソ連軍とノモンハンで衝突した。関東軍は完敗し、生存者は約4%であった。ソ連軍の実力を痛感させられた。昭和16年日ソ中立条約が締結された。日本は資源を求めて東南アジア侵略を目指した。ヒットラーはソ連の背後を攻めない日本に対して苛立ちと幻滅をあらわにしたそうだ。
その前年、「八鉱一字」のスローガンを掲げて軍部も政府も“日中戦争は聖戦である”としていた。これに対して、斎藤隆夫議員は衆議院で反軍演説を行った。すると国会議員達は彼を除名した。そして新聞も国民も彼を非国民として攻撃した。
戦後、国会議員は戦争の責任を軍部に押し付けて政界に続々と戻って来た。報道機関の中には、官権による機関・言論の弾圧のせいとして、自らの責任を転化し、その社名を変えることもなく発刊している新聞社もある。
最近、郵政民営化法に反対した国会議員達は選挙後、その舌の根もかわかぬうちに、次々と賛成派に変わり、復党をはたした。
昭和16年12月海軍は真珠湾を攻撃し、陸軍はマレー半島に上陸した。陸軍は地上戦が主であるが独自の航空兵力も持っていた。その代表的なものをあげる。
1.一式戦闘機「隼」(キ-43):オスカー Ⅰ型
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 九九式950HP(ハ-25)
空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速2翅、直径2.90m - 寸法
- 全幅11.437m、全長8.832m
- 全備重量
- 2.043kg
- 最大速度
- 491km/時
- 航続距離
- 1,146km
- 機銃
- 7.7mm×2
- 爆弾
- 15~30kg×2
一式とは採用された年が昭和16年皇紀(神武天皇が即位した年を1年)2601年の末尾の1から名付けられた。
加藤建夫中佐率いる「加藤隼戦闘隊」は当時の国民の人気の的となった。昭和19年までに5700機生産され、零戦10000機に次ぐ記録となった。
Ⅱ型
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 九九式950HP(ハ-25)
空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速2翅、直径2.90m - 寸法
- 全幅11.437m、全長8.832m
- 全備重量
- 2.043kg
- 最大速度
- 491km/時
- 航続距離
- 1,146km
- 機銃
- 7.7mm×2
- 爆弾
- 15~30kg×2
軽戦闘機で連合軍の戦闘機に対して武装の弱さは致命的であった。
2.二式戦闘機「鐘馗」(キ-44):トージョー
- 乗員
- 1名
- エンジン
- 一〇〇式1.250HP(ハ-41)
空冷式複列星型14気筒プロペラ/金属製定速3翅、直径2.95m - 寸法
- 全幅9.45m、全長8.85m
- 全備重量
- 2.571kg
- 最大速度
- 580km/時
- 航続距離
- 926km
- 機銃
- 7.7mm×2 12.7mm×2
大型のエンジンを使用したため、着陸速度が大きいなど軽戦闘機になれたパイロットからは不評だった。約1200機が生産された。
3.二式複座戦闘機「屠竜」(キ-45):ニック
- 乗員
- 2名
- エンジン
- 一〇〇式ハ-102空冷式複列星型14気筒1050HP
- プロペラ
- 定速可変ピッチ3翅、直径2.95m
- 寸法
- 全幅15.02m、全長10.60m
- 全備重量
- 5,276kg
- 最大速度
- 517km/時
- 機銃
- 前方固定37mm砲×1 下部固定20mm砲×1
上向20mm砲×2 後方旋回7.9mm砲×1 - 爆弾
- 250kg×2
龍の殺し屋と名付けられたこの戦闘機はビルマ・中国に配置された。戦争末期にはB-29攻撃に活躍した。
4.三式戦闘機「飛燕」(キ-61):トニー
- 乗員
- 1名
- エンジン
- ハ-40液冷式倒立V型12気筒1.100HP
- プロペラ
- 定速ピッチ3翅、直径3.00m
- 寸法
- 全幅12.00m、全長8.74m
- 全備重量
- 2.950~3.250kg
- 最大速度
- 592km/時
- 航続距離
- 600~1.100km
- 機銃
- 2.7mm×2(機首)、12.7mm×2(主翼)
日本唯一の液冷エンジン(ドイツのDB60/Aエンジンのライセンス生産)を採用した。しかし、そのエンジンが不調のため目立った戦果は残せなかった。
5.四式戦闘機「疾風」(キ-84):フランク
- 乗員
- 1名
- エンジン
- ハ-45-2(NK9H)空冷式複列星型18気筒1,860HP
- プロペラ
- ぺ32電気定速ピッチ4翅、直径3.05m
- 寸法
- 全幅11.30m、全長9.74m
- 全備重量
- 3,750kg
- 最大速度
- 624km/時
- 航続距離
- 1,745~2,500km
- 機銃
- 20mm×2(主翼)、12.7mm砲×2(機首上)
- 爆弾
- 250kg×2
中島飛行機がもてる技術の全てを注ぎ込んで開発した戦闘機だった。多大な期待とともに3488機を生産した。
「隼 帰還せず」
江戸川区医師会・会報誌・江戸川2008年1月号に記載
第3弾 ヨーロッパ燃ゆ
平成21年6月、私は妻とプラハを旅した。訪れる際にチェコの歴史を勉強したが、調べていくうちに、いかにチェコが悲劇の歴史を経験したのが分かった。特に第一次世界大戦と第二次世界大戦によってヨーロッパの首脳達が自国の利益のみを求めた結果、多くの国民がいかに悩み、悲しむことになったか理解できた。そこで私のプラモデルのコレクションの中から数品を紹介しながら、第一次世界大戦から第二次世界大戦のヨーロッパ社会を顧みたいと思う。
パプスブルグ家の崩壊
1806年神聖ローマ帝国は、ナポレオンによるライン同盟成立によって実質上滅亡した。しかし、神聖ローマ帝国の中心であったパプスブルグ家の勢力は、オーストリア帝国として健在であった。女帝マリア・テレジアは16人の子供をつくり、各国の王室と姻戚関係を結んだ。その一人にフランス革命の時に有名になったマリー・アントワネットがいた。政略結婚のためとはいえ、これだけの子宝に恵まれることは夫婦の深い愛情のしるしと思われ、恐れ入った。彼女は夫の死後、喪服しか着なかったそうである。我が妻にも参考にしていただきたい。
20世紀初頭、パプスブルグ家の力も衰えはじめ、ヨーロッパ各国は自国利益のみを優先し、それゆえに同盟をむすび、反対勢力と対抗した。そんな中、1914年6月28日、オーストリアの皇太子夫妻がサラエボにおいてセルビア人の一青年に暗殺された。この事件をきっかけに第一次世界大戦が始まった。この戦いはどんな戦法でもまかり通る殺し合いであった。毒ガス・飛行機が軍事用に使われ、タンク(戦車)・Uボート(潜水艦)が登場した。産業革命以来の科学者の研究成果を政治家・軍人達が悪用した結果である。1917年、ロシアで革命が起こり、ロシアはドイツと休戦条約を結んだ。1918年11月3日ドイツでキール軍港の水兵が暴動を起こし、各地に革命が波及し、ドイツ皇帝は逃亡して、11月11日連合国と休戦し、大戦はようやく終わった。サラエボでの一発の弾丸が多くの人々を殺戮する結果になった。
第一次世界大戦で戦死した人の数は連合国側が515万人、ドイツと同盟国側が338万人であった。また負傷者は両軍あわせて2000万人を超えた。
1919年1月パリ講和会議が開かれ、6月にベルサイユ条約が成立した。
ヒットラー登場
第一次世界大戦後、ドイツはワイマール憲法が制定され、“ワイマール共和国”とも呼ばれるようになった。オーストリアではパプスブルグ家の支配が終わった。
1889年アドルフ・ヒットラーが生まれた。彼は芸術家を目指し、美術学校を受験し3回失敗しているが、青年時代、ウィーン浮浪者収容所で暮らし、極貧の悲惨な生活を経験した。同じようにスターリン(後のソ連の独裁者)も浮浪者収容所で暮らしていた。ヒットラーは第一次世界大戦に従軍後、戦後ドイツ労働者党に入党した。
第一次世界大戦の悲惨さは、人類に平和の尊さを知らせ、大戦後には平和主義・国際協調主義の風潮が世界に行き渡った。民主主義が大いに進み、普通選挙が拡大され社会主義政党が政権を握る国家も現れた。その間軍縮や不戦条約などによって、世界平和は永久に保たれるように思われた。ところが、資本主義経済の行き詰まりから、1929年に起こった世界恐慌はこのような希望を粉砕した。各国はこの不況を切り抜けるのに苦心した結果、自給自足を目指す排他的なブロック経済の確立に努力した。
イタリアでは、自由主義や民主主義を真っ向から否定する全体主義(ファシズム)が最も早く起こり、ムッソリーニ率いるファシスト党が政権を掌握した。
ドイツでは、ヒットラーが入党した「ドイツ労働者党」が「国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)」と名前を変えた。反対勢力は彼等を軽蔑の意味を含めてナチスと呼び、それが一般化した。ナチスはドイツ民族の優秀性を説き、ベルサイユ条約の破棄・植民地の再分配・ユダヤ人排斥を唱える反面、戦時利得の没収やトラスト国有などの社会主義的な政策を掲げて、国民生活の安定を約束した。経済の悪化のため生活の不安に悩んだドイツ人は次第にナチスを支持し、その勢力は急激に増大した。そして、ナチスは1932年の総選挙で第一党となり、翌年ヒットラー内閣が成立した、ドイツ国民は右手を高く挙げ『ハイル・ヒットラー(ヒットラー万歳)』と叫んだ。ヒットラーはカリスマ性を持った独裁者だ。政敵を次々と抹殺したが、国民は彼のパフォーマンスに熱狂した。
日本でも戦後、政治家達は数々のパフォーマンスを示した。例えば「所得倍増計画」「日本列島改造論」「自民党をぶち壊す」「マニフェスト」等がある。しかしながら、最近の国民は辛抱強くなく、早急な結果を求める。メディアは頼まれた訳ではないのに、毎月のように内閣支持率を発表している。その結果はみるみる低下し、政策は半ばで挫折し、負の遺産となってしまう。
1938年ドイツはオーストリアを併合し、翌年チェコスロバキアを解体させた。そして、8月23日ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。9月1日ドイツはポーランドに電撃作戦を開始した。まず、ユーカース急降下爆撃機【写頁1】が通信資設飛行場を空爆し、相手の反撃を断った。次にハインケン爆撃機【写頁2】が主要都市を空襲した。地上戦ではタイガーT型戦車【写頁3】が出撃し、歩兵部隊がその後に続いた。ポーランドの多くの都市は破壊され、死者の山を築いた。再びヨーロッパは戦場となり、燃え始めた。
9月3日英国とフランスはドイツに宣戦して、第二次世界大戦が開始された。9月17日ソ連軍はポーランドに進撃して、ドイツとの間にこれを分割し、翌1940年、ソ連はフィンランドに宣戦して軍事基地を割かせ、エストニア・ラトビア・リトアニアを併合した。ルーマニアからベッサラビアを奮ったドイツは、4月にデンマーク・ノルウェー、5月にオランダ・ベルギーに侵入し、遂にフランスに入った。ダンケルクの戦いでフランスは敗北し、ドーバー海峡へ追いつめられた。英国海軍が救援運送船団を送って、フランス軍は辛くも英国本土に撤退した。そして、6月14日ドイツ軍はパリを占領した。
1940年9月、ドイツのめざましい戦勝を見て、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国軍事同盟を成立させた。
パリを占領したドイツ軍は英国への上陸を試みた。ゲーリング元帥率いるドイツ空軍は、まずユーカース急降下爆撃機で英国の通信資設網と飛行場を破壊し、ハイケル爆撃機がロンドン・マンチェスター等、英国の主要工業都市を空襲した。ドイツ空軍が都市部への攻撃に集中している間に、英国は飛行場と通信資設を回復させ、遂にハインケルに対して、英国の名戦闘機・スピットファイアー【写真4】が飛び立った。スピットファイアーは次々とハインケルを撃墜した。ドイツは空軍を代表するメッサーシュミット【写頁5】をハインケルの護衛機とした。しかし、往復の飛行距離からメッサーシュミットは英国上空に長時間滞在できず、また製能の差からメッサーシュミットもドーバー海峡へと消えていった。そして、遂にヒットラーは英国本土への上陸を諦めた。しかし、ドイツ軍はロケットを開発し、Vロケットと名付け、英国への空撃を続けた。
連合国軍の反撃
ドイツ本国では、戦勝ムードが満ちていて、ゲッベルス宣伝相は『もし連合国がこのベルリンに一発の爆弾でも落とすことが出来たなら、私は即刻辞任する』と豪語した。しかし、1940年8月25日英国からベルリンに向かって、決死の爆撃隊が発進した。英国のアブロランカスター爆撃機【写頁6】は夜のベルリンを初空撃し、ゲッべルスの鼻をへし折った。
1941年12月8日、日本は無謀にもハワイの真珠湾を空襲した。日本は眠れる獅子の尻尾を踏んでしまった。
『ナチ野郎をぶっ飛ばせ!ジャップを叩き潰せ!』
それまで、厭戦的だった米国は激怒し、愛国心に火をつけた。
その報告を聞いた英国のチャーチル首相は、くわえていた葉巻を床に落とし、興奮して叫んだ。
『これでドイツに勝てる!』
1941年ドイツは遂にソ連に宣戦した。東部戦線ではドイツ軍は破竹の勢いでたちまちモスクワに迫ったが、1942年9月ソ連軍はスターリングラードでドイツ軍をくいとめた。そこに、冬将軍とジューコフ将軍率いるT-34戦車【写頁7】がドイツ機甲師団に襲いかかった。
一方、ドイツ軍は北アフリカにも上陸した。“砂漠の銀狐”と呼ばれたロンメル将軍はドイツ機甲師団を率いて破竹の勢いで英国の支配するエジプトのカイロを目指していた。しかし、英国海軍は地中海で制海権を支配し、ロンメル機甲師団に対する補給を断っていた。モントゴメリー率いる米英国戦車隊はエル・アラメインの戦いでドイツに勝利した。
米国の参戦はチャーチルの予想通り、ヨーロッパ戦線において連合国軍に戦況を好転させた。
1943年連合国軍はシシリー島を占領し、9月にはイタリア本土に上陸した。そして、イタリアは無条件降伏を行った。1944年6月4日連合国軍はローマを占領した。1944年6月6日アイゼンハワー司令官はフランスのノルマンディに連合国軍を上陸させる断を下した。後に、“史上最大の作戦”として映画化された。
ヨーロッパに上陸した連合国軍はシャーマン【写頁8】とパットン【写頁9】であった。また空からはB-17【写頁10】がドイツ本土を爆撃した。ドイツは国力が疲弊した。そして、1944年12月アルデンヌでドイツ軍は最後の戦いに挑んだ。新型強力戦車・キングタイガー【写頁11】を投入した。この戦いは後に「バルチ大作戦」と呼ばれた。
シャーマンの砲弾はキングタイガーの鋼鉄を貫通できず、逆にシャーマンはキングタイガーに次々と破壊された。しかし、連合国軍はドイツ軍の燃料補給路を断ち、キングタイガーは粗大ゴミとなってしまった。
1945年5月2日ベルリンが陥落し、7日ドイツは無条件降伏した。
一方、日本において米国は8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾を投下した。15日、日本は無条件降伏した。ここに第二次世界大戦の幕は降りた。
戦後、東ヨーロッパはソ連の後押しで社会主義国家が次々と誕生し、ワルシャワ条約機構が結成された。一方、西ヨーロッパはアメリカを中心とする北大西洋条約機構(NATO)が結成された。この2つの機構は対立し、“冷戦”と呼ばれた。人間には常に新たな敵が必要であるのだろうか?ドイツは東西陣営に分割され、戦前の首都ベルリンは壁で囲まれた。
しかし、東欧の社会主義政権は行き詰まり崩壊した。そして、1989年遂にベルリンの壁が崩壊し、ドイツは統一された。
2009年は第二次世界大戦開始70周年となり、ポーランド北部のグタニスク郊外で記念式典が開かれ、ロシアのプーチン首相やドイツのメルケル首相らも参加し、悲劇を繰り返さないことを誓い合った。
しかしながら、政治家の約束や誓いほど当てにならないものである。
ソ連崩壊後、ヨーロッパは各地で民族主義が起こり、数多くの国家が生まれた。しかし、今度は汎ヨーロッパ主義が台頭し、各国々はEUとして、共に手を携えて歩もうとしている。この一見矛盾した理念が現在のヨーロッパを支配している。
戦火に燃えるヨーロッパを飛んでいた戦闘機や、大地を走行していた戦車は、動かぬ模型として、永遠に私のガラスケースの中に留まっていて欲しいものである。
「ヨーロッパ燃えゆ」
江戸川区医師会会報誌・江戸川2010年1月号に記載
第4弾 大和よ、永遠に
九州の漁師達の間では、坊津沖を航行する際、海から時々会話が聞こえるという噂を耳にする・・・・・・。
『有賀艦長、目覚めて下さい……』
『大和、大丈夫だったのか?』
『大丈夫ではありません。ここは九州・坊津沖の海底です。こうなることは自分には分かっていました』
『すまん……。ところで今はいつだ』
『平成22年です』
『平成?』
『昭和64年1月7日、天皇陛下が崩御され、皇太子・明仁親王が即位され、新しい元号が平成となりました』
『私は66年も海底で眠っていたのか。すると、大和は今年で古稀を迎えるわけか』
『一緒に海底に沈んだ3700名の戦友の精霊達が時々私を起こしに来るんです。1974年、漫画家の松本零士が書いた宇宙戦艦ヤマトが大人気となりテレビ化され、自分は一躍有名になりました。そして昨年、それが映画化され、更に多くの日本人、否今では世界の人が自分の名前を知っています。でも、有賀艦長、人々は本当の自分の歴史を知らないと思います。艦長にはその真実を伝える義務がおありになるのではないでしょうか』『確かに、大和の言うことにも一理ある。それじゃ少し伝えようか……。明治維新頃からではどうだろう』
1868年、江戸幕府が崩壊し、明治新政府が誕生した。その頃の世界は、米国では南北戦争直後、ヨーロッパでは普仏戦争で、ナポレオンⅢ世が統治していたフランスは敗北し、ベルサイユ宮殿でドイツ皇太子の戴冠式が行われ、ヴェルヘルムⅠ世として即位するという屈辱を味わった。
英国はインドで発生したセポイの反乱をやっと沈静化し、ムガール帝国を滅し、インド直接統治に乗り出ていた。
欧米列強国は、偶然にも日本に手を出せる余地はなかった。
明治政府は富国強兵策を急いで行った。何故なら、その当時は帝国主義が当然と思われていた。食うか食われるか、植民地を奪い合う時代だった。
日本もいつ植民地にされてもおかしくない状況に置かれていた。福沢諭吉が「脱亜入欧」を提唱し、政府は朝鮮半島・中国大陸を侵略し、日本の防衛線を築くのに必死だった。産業革命に遅れた中国・清を相手に日本は勝利し、世界を驚かし、中国を列強諸国が侵略することに拍車がかかった。当然、中国の隣国・ロシアと日本は衝突することになった。1904年日露戦争が勃発した。ロシアのバルチック艦隊を日本海で全滅させ、日本は何とか引き分けに持ち込んだ。
しかし、莫大な戦費と死傷者で日本は破錠寸前となった。しかし、1914年第一次世界大戦が始まると、日本では戦争による好景気が起こった。
1919年大戦が終結すると日本にも不景気が到来した。そして、1929年世界経済恐慌が始まり、日本は中国侵略を打開策とした。
日本では、軍国主義がはびこった。そして、ドイツではヒットラー率いるナチスが国民に「パンと仕事」を公約し、1933年に政権を獲得した。
その結果、ヨーロッパを侵略し始め、1939年遂に第二次世界大戦が勃発した。
日本は米国から満州からの全面撤去を迫られ、もし従わない場合は日本への石油の全面輸出禁止を言い渡された。連合艦隊指令長官・山本五十六は米国との開戦を決意した。そして、米国を奇襲し、優位な条件で講和に持ち込む腹積もりだった。1941年南雲中将率いるハワイ奇襲部隊は、12月8日、零戦21型・九七式艦上攻撃機・九九式艦上攻撃機を空母から発進させ、ハワイ・オアフ島の真珠湾を奇襲した。ドイツに苦戦していた英国チャーチル首相はこの報告を聞いて、口に咥えていた葉巻を床に落として、叫んだ。
『これでアメリカが参戦するぞ!ドイツに勝てる!』
米国民は厭戦的であった。米国には以前からモンロー主義(アメリカ5代大統領モンローは“ヨーロッパの紛争には一切関わらない”と宣言)があった。
それ故に第一次世界大戦後、アメリカ大統領・ウィルソンが提案した国際連盟に、結局米国は加入しなかった。
そんな国民性の中、日本の宣戦布告が遅れた真珠湾攻撃は、眠れる獅子の尾を踏みつけるものと同じであった。米国民は目を覚まし猛然と牙をむき出した。
『ジャップを叩き潰せ! Remember Pearl Harbor 』
智将と呼ばれた山本五十六は真珠湾攻撃の際、2つの大きな誤算をした。
1つは真珠湾内に空母が停泊していなかったこと、もう一つは真珠湾には巨大な製油所があったが、一発の爆弾も落とさず攻撃隊が去ったことである。
もし、空母を撃沈し、この製油所を空爆していたら、米国の反撃は半年位遅れただろうと言われている。
1941年12月10日、サイゴンを飛び立った九六式陸上攻撃機は英国東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスに襲いかかり、撃沈させた。
この真実は、それまで日本を猿真似と蔑んでいた英国軍に衝撃を与えた。米国は、この報告を冷静に受け止め検討し、いかに航空戦力が重要かを理解した。
一方、勝利者の日本海軍はそれを認識せず、相変わらずバルチック艦隊を滅した艦隊戦主義がはびこり、1941年12月7日戦艦大和が完成し、大艦巨砲主義の頂点に君臨した。
全長263m、全幅38.9m、排水量64000トン、前門6門、後門3門の主砲は重量1.46トンの砲弾を発射した。
『艦長、自分は既に無用の長物だったのでしょうか?』
『そんなに嘆くな、大和よ。物は使いようだ。良い例がある』
1939年関東軍はノモンハン(モンゴルと満州の国境)でソ連軍と衝突した。
九七式中戦車チハはソ連軍の砲撃で次々と破壊され、歯が立たなかった。
しかし、日本陸軍は1941年12月8日マレー半島に上陸した。その時、活躍したのが九七式中戦車チハだ。
ノモンハン事件で役に立たなかった九七式中戦車チハは、マレー半島のジャングルの狭い道では大いに役に立ち、短期間でシンガポールを陥落させた。
米国の反撃が開始した。珊瑚海で史上初の空母対空母の対決が行われ、引き分けで終わったが、ミッドウェー海戦では、SBDドーントレスの攻撃で、空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を失うなど大敗北を喫した。
『その大敗北は自分も知っています。後方指揮官として山本長官が自分に乗っておられたので』
ミッドウェー海戦で多くの熟年パイロットを失った日本は、生存したパイロットに対し、この大敗北を隠すため、彼らを冷遇し、さらなる激戦地へ送り込んだ。
一方、米国も空母ヨークタウンを失ったが、帰還しないパイロットをカタリナMKIVAで必死に捜索・救出し、彼等から得た経験・情報を次の戦いで生かした。
1942年6月中旬、日本軍はガダルカナル島に上陸し、飛行場を造成した。その完成が近いことを知ると、8月7日、米軍が上陸し、激戦地となった。
しかし、補給を断たれた日本軍は撤退することになった。ここに日米の攻守交代が起こった。米軍を中心とする連合国軍の猛反撃が開始された。1943年4月18日、前線基地を視察する目的で、山本五十六を乗せた一式陸攻はニューブリテン島のラバウルを離陸した。
しかし、この情報は米国に察知され、ロッキードP38・ライトニングが待ち伏せし、山本五十六を乗せた一式陸攻を撃墜した。後を継いだ古賀峯一大将も1944年3月31日、川西二式大型飛行艇でダバオ(フィリピン)に移動中、低気圧に巻き込まれ墜落し、行方不明になった。
そして、5月に豊田副武大将が連合艦隊司令長官に就任した。
マッカーサー元師率いる連合軍はフィリピンのレイテ湾に上陸しようとした。
レイテ決戦は、太平洋戦争が異様戦術に突入するきっかけとなった。
大西龍治郎中将が、零戦などの航空機による敵艦への体当たり戦法、すなわち特攻を命じた。そして、日本連合艦隊はレイテ湾への捨て身の突入を開始した。
当然、米国は連合艦隊へ猛攻撃を加えた。
『その作戦なら自分も参戦しました。兄弟艦の武蔵は猛攻撃(魚雷30発・爆弾17発)を受け満身創痍、遂に力尽きてシブヤン海に沈没してしまった。自分は後ろ髪を引かれる思いでレイテ湾を目指しました。そして、やっとレイテ湾に辿り着いたと思ったら、栗田健男中将は反転命令を出したのです。自分は“嘘!何故!”と何度も心の中で叫びました。納得いかないまま北へ変針し、しばらくすると米国空母を発見し、自分は主砲46cmの砲を撃ちまくりました。無念に沈没した仲間達の分まで。その甲斐あって、米国空母を撃沈できたらしいのであります……』その後マッカーサー元師は、レイテ湾の上陸に成功し、フィリピンを掌握した。
日本連合艦隊は米国機動部隊と最後の組織的決戦を行うことになった。しかし、その頃には日本の敗戦を決定付ける日米の技術力の差があった。
米国は高性能(距離・高度・方向を測定可能)のレーダーを開発した。米国機動部隊に向けて発進した彗星は、戦闘能力でも零戦を上回るスピードと破壊力を備えたF6ヘルキャットの待ち伏せを受け、その多くは海へと消えた。また、あのアインシュタイン博士も開発に協力したと言われるTV信管付対空砲弾を完成させた。これは、命中しなくても近接したら熱を感知して炸裂し、飛行機を破壊する代物だ。やっと米国機動部隊に辿り着いた特攻機もその目的を達することなくTV信管付対空砲弾で撃墜された。そして、TBMアベンジャーによる攻撃によって日本連合艦隊はほとんどの空母を失い再起不能となった。
このアベンジャーのパイロットの一人にジョージ・H・W・ブッシュがいた。その後、彼は第41代米国大統領に就任し、湾岸戦争を開始した。硫黄島の死闘を制した米国軍は、4月1日、ついに沖縄に上陸を開始した。豊田連合艦隊長官は、無謀な大和特攻作戦を発動した。
『有賀艦長、出航日はいつでしょうか?』
『4月2日だ』
4月2日戦艦大和は出航し、4月6日軽巡艦・矢矧、8隻の駆逐艦に護衛され沖縄に向かって出撃した。
『艦長、何故豊田長官は乗船されなかったのですか?』
『長官は残って日本本土で戦うそうだ』
『日露戦争の日本海海戦の際、東郷連合艦隊長官は戦艦三笠に乗船して部下を鼓舞されました。
そして、先陣きって戦ったからこそ、奇跡が起こったのではありませんか。海軍軍人が海で戦わず、陸に残ってどうするのですか?それに自分の腹には沖縄への片道の燃料しか注入されていません』『もう、判っているだろう。この作戦が特攻であることを』
7日の朝、護衛の零戦隊が基地に帰還し始めた。
『艦長、ゼロ戦が去っていきます』
『皆、我々に敬礼しているな』
7日11時、米空母機からの攻撃が始まった。
『左舷前方に敵機発見!』
その数分後、米国航空機はスズメ蜂の大群のように戦艦大和を攻撃し始めた。
『艦長、頭には爆弾、腹には魚雷をくらいました。しかし、まだまだ大丈夫です』
『大和よ辛抱しろ!何が何でも沖縄に辿り着くぞ!』
攻撃を受けること3時間あまり、爆弾7発、魚雷10発を受けた大和は4月7日午後2時半頃、九州の坊津沖にて遂に沈没した。
残ったのは駆逐艦4隻だけだった。戦死者は3700名にのぼった。
『自分は一度、眠りに就いたけれど、時々精霊達が自分を起こしに来て、色々なことを伝えてくれました』
その後、豊田長官は5月に連合艦隊司令長官を辞任し、小澤治三郎中将が長官に就任した。
米国は8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を投下した。8月9日ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州に攻め込み、日本人をシベリアに強制連行し、抑留させ労働を強いた。8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏を行った。
日本軍が犯したことは虐殺行為・ジュネーブ協定違反として罵られた。しかし、米国の投下した原爆は、無抵抗な老人・子供・女性・病人達を無差別に殺戮した。
また、ソ連軍によるシベリア抑留は、明らかなジュネーブ協定違反だ。古代メソポタミアで行われたバビロン捕囚にもまさる行為であるのに、無条件降伏を呑んだ日本の抗議に耳を傾けようとしない。国際社会においても、勝てば官軍なのだ。
戦後の日本では、政治家達は戦争責任を軍部の暴走によるものと決めつけ、再び政界に戻ってきた。軍部に屈し、迎合したことなどすっかり忘れている。新聞社は、国民をさんざん煽っておきながら、その責任は検閲による言論の自由への弾圧にあるものとした。教育者達は、戦前教育は軍国主義として全て否定した。国民は、戦争被害は国の責任として、自らを問うことはしない。
『艦長、兄貴分の戦艦長門がどうなったか御存知でしょうか?』
『長門は生き残ったのか……』
『戦後、米国に接収され原爆の実験台として、強烈な放射線に汚染されながら沈没していきました』
『無念……さぞかし辛かっただろう』
『第二次世界大戦後、世界平和が続くと思ったら、大間違い。戦勝国たちはやりたい放題であります』
朝鮮戦争、中東戦争、ベトナム戦争、アフリカ独立戦争、民族・宗教戦争等、そのほとんどに戦勝国が関わり合っている。
核兵器は廃棄されるどころか、競争するように増大されている。ソ連は共産主義を拡張し、同盟国を増やすことに必死だった。
一方、米国は自由主義・民主主義・グローバルスタンダード・人権等を強調し、軍事的・経済的に圧力をかけ、その国の独自の文化・国民性を全く認めようとはしない。
戦前の日本人は「鬼畜米英!」と叫んでいたが、戦後は「give me choco !」と叫び、日本は米国追従の優等生となった。
日本では戦後、新憲法が制定され、直接戦禍を被ることはなかった。そして、米国に次ぐ世界第2位経済大国に成長した。豊かになり、平和を満喫している日本人は大和が何故沈没したのかなど全く知らない。
政治家達の中には“国民のため”と口先では言うが、戦前も戦後も私利私欲に走り、保身のみを考え、党利党略に必死になっている人もいる。
そんな姿を見飽きた国民達も政治に幻滅している。
史上初の民主主義を生んだ古代ギリシャが滅亡した原因は、疫病でも戦争でもない。扇動政治家(デマゴーグと言って、デマの語源)達による衆愚政治が蔓延したためと言われている。彼等は人気取りのために嘘やデマを言いふらし、民衆を煽った。日本の政党の公約も選挙後には、その多くが実行されていない。また、衆愚政治とは愚かな民衆による政治。また、民衆が愚かな選択をしてしまう政治。民衆は悪意のない人々が多いが、騙されやすいし、人気のある人を無条件で信じてしまう。昨今の日本の国政選挙でも、有名人や人気タレントが続々と立候補したり、担がれている。そんな人たちの中には、当選時のインタビューで「これから一生懸命政治を勉強します」と平気で答える人もいる。
歴史を知らず、現実から逃避している人々を見て、精霊達が大和に嘆きかけに来る。
『自分が命を賭して守った国の現状といったら・・・』
『今の日本人の多くは、我々を軍国主義者だと思っている』
『自分達は“お国の為に死ぬ”と言って出撃したけれど、本当は家族の為にもっと生きていたかった』
『我々を軍国主義者などと思わないで欲しい。今と我々の時代では、社会状況や価値観が大きく違うのだから』
『自分達のことを覚えていてほしいとは言わない。でも、自分達のことを知ってほしい……』
「おーい、また海の方から人の話し声が聞こえるぞ・・・」
「馬鹿なことを言うな、俺には何も聞こえないぞ」
「いや、確かに聞こえた」
「空耳だろう。また、噂を信じる奴がいるよ」
『・・・・・・・・・・・』
大和は再び眠りについた。彼の魂が永遠に静寂に保たれるような現世にしたいものである……。
「大和よ、永遠に」
江戸川区医師会・会報誌・江戸川2011年3月号に記載